ジャズ、フュージョン好きな人で彼の名を知らない人は少ないかと思います。
天才、革命児と言われた彼の独自の世界観と革新的なプレイスタイルは現在でも多くのベーシストに多大な影響を与え続けています。
ベーシストならジャコ・パストリアスを知らないという方であっても多かれ少なかれ、間接的に影響は受けているかと思います。
ジャコ・パストリアスのドキュメンタリー映画「JACO」が2016年12月3日から日本でも公開がスタートしたということもあり、今回はジャコ・パストリアスがどういった人物であったのか調べてみたので、お話していきたいと思います。
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幼少期
1951年9月21日生まれのジャコ・パストリアスこと、本名ジョン・フランシス・パストリアス3世は幼少期は聖歌隊に参加されていたとのこと。
また、祖父が軍楽隊のドラマーで、父親もジャズシンガー&ドラマーであったため、 その影響は大きかったと思います。ジャコが最初に手にしたのはベースではなくドラムだったとのこと。
出典: The Life of Jaco | Jaco Pastorius
8歳の頃からドラムを叩き始め、地元のバンドにもドラマーとして参加していましたが、13歳の時フットボールの試合中に右手首を負傷してしまいドラムを続けることが困難になり、それがきっかけでベーシストに転向したそうです。
ドラムが叩けなくなる程の重症やったのに、ベースは弾けるもんなんですかね…??
ちなみに「ジャコ」というのは幼い頃からのニックネームである「ジョッコ」を 音楽仲間のアレックス・ダーキーがフランス風に「Jaco」と綴ったのを本人が気に入り、それ以降「Jaco」と名乗るようになったと言われています。一時期「Nelson Jocko Padron」という名前で活動していた時期もあったそうです。
「ジョッコ」というニックネームは1950年代のメジャーリーグのアンパイアである、ジョッコ・コンランから取ったんだとか。ジャコも父親も野球ファンで、本人はリトルリーグで優秀な選手だったそうです。
プロとしてのキャリアをスタートさせるまで
13歳で始めたベースですが、17歳の頃にはかなり上達していたそうです。
その後、人工ハーモニクスという奏法を発見したといろんなサイトやブログに記されているんですが、ジャコが最初に発見したのかどうかは調べてみましたが不明です。ただ、ベースにおいて人工ハーモニクスという奏法を世に広めたのがジャコであるということは確かでしょう。
19歳の頃に自身のベースを後にトレードマークとなるフレットレスベースに自ら改造されたとのこと。その頃から地元で数々のソウル、R&B、ジャズバンドで活動を続け、ベースだけでなく、作曲やアレンジにおいての才能も開花させていたようです。
22歳の時にはマイアミの「バチェラーズIII」というクラブの専属バンドに雇われるようになり、ビッグバンドのホーンアレンジなんかも手掛けていたとのこと。このバンドは後に結成される「Word of Mouth Big Band」でトロンボーンを吹いていたピーター・グレイブスが音楽監督を務めていたそうです。
23歳の時にはプロとして初めてのレコーディングを経験されたとのこと。マイアミ、ソウルシーンのセッションギタリスト、リトル・ビーバーこと、ウィリー・ヘイルの「Party Down」に参加されています。
そして、その頃マイアミに来ていたトランペット、サックス奏者のアイラ・サリヴァンともよく一緒に演奏されていたとのこと。マイアミ大学でジャズクリニックを開講していたアイラ・サリヴァンはよくジャコをそのクリニックに同伴させていたそうです。それを機にジャコもマイアミ大学で週に何度か個人レッスンを開くようになったとのこと。
また、マイアミ大学ではパット・メセニーとも知り合り、1975年にリリースされた彼の初のリーダーアルバム「Bright Size Life」に参加されています。
同じ年、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズのドラマーである、ボビー・コロンビーとも出会い、ジャコのベースに惚れ込んだボビー・コロンビーによるプロデュースで1976年に「ジャコ・パストリアスの肖像」でソロデビューしています。
このアルバムはベースという楽器の可能性を広げた1枚と言っても過言ではないかと思います。ジャズとかフュージョンに興味のないベーシストでも聴いて損はないでしょう。
個人的にはやっぱり「Come On, Come Over」が好きです。初めてジャコを聴く人も入りやすいかと思います。
ちなみにジャコとボビー・コロンビーとの出会いはボビー・コロンビーがジャコの最初の妻であるトレイシーをナンパしたのがきっかけだったそうです。自分がナンパした女性の旦那がベーシストだと聞かされ、最初は冷やかし半分で演奏を聴きにいったそうなんですが、実際目の当たりにして度肝を抜かれたそうです。こういう運命のいたずら的エピソードは個人的に結構好きだったります。
ウェザー・リポートへの加入
出典: The Life of Jaco | Jaco Pastorius
1976年、ジャコはツアーでフロリダを訪れていたウェザー・リポートの中心的人物であるキーボードのジョー・ザヴィヌルに自身のデモテープを渡し、バンドへ参加したい意志を伝えたそうなんですが、そのアプローチの仕方がかなりしつこかったようです。「俺は世界最高のベーシストだ」とか「昔からあんたの大ファンなんだ」的なことを執拗にアピールしまくっていたんだとか。まぁ、相当自信がないとできることではないと思うんですが、天才と言われた男もこうやって必死に自分を売り込む努力はしていたんですね。
あまりのしつこさに根負けしてデモテープを受け取ったジョー・ザヴィヌルは最初テープを聴いた際、ジャコのベースがアップライトベースだと思い込んでいたそうですが、本人尋ねるとエレキだと言われ驚いたそうです。
当時、ちょうど2代目ベーシストのアルフォンソ・ジョンソンの脱退がほぼ決定的となっていましたが、制作中の7枚目のアルバム「Black Market」はまだ未完成の状態でした。ジャコが後任として相応しいか他のメンバーに相談した結果、アルフォンソ・ジョンソンと入れ替わる形でジャコがレコーディングに参加する運びとなったようです。アルバムにはジャコ作の「Barbary Coast」という楽曲も収録され、以降、正式にウェザー・リポートのメンバーとして加入することとなりました。
ウェザー・リポートではベーシストとしてだけではなく楽曲の提供もされています。また曲によってはベース以外にもドラムやティンパニーなんかも演奏されていました。ウェザー・リポートには12枚目のアルバム「Weather Report」まで参加されています。
ウェザー・リポート自体もジャコの加入により、今までなかったR&Bやロックのテイストが取り入れられたサウンドに変化し、それがジャズに興味のない若い白人たちにも受け入れられ、8枚目のアルバム「Heavy Weather」は ビルボードのジャズチャートで1位を獲得しています。
個人的にウェザー・リポート時代のジャコと言えば今やジャズのスタンダードナンバーとなった「Birdland」や「Teen Town」の印象が強いのですが、どちらも「Heavy Weather」に収録されております。
この頃ジャコはウェザー・リポート以外にもジョン・マクラフリン、トニー・ウィリアムスらと結成した「Trio of Doom」での活動やジョニ・ミッチェルのアルバムのプロデュースやツアーへの参加等、様々な活動を行っていました。まさに乗りに乗っている時期だったかと思います。
ウェザー・リポート脱退
1981年に満を持しての2枚目のソロアルバム「Word of Mouth」を発表するのですが、その前に元々ソロ契約していたエピックからワーナーに移籍しています。そのことでウェザー・リポートと契約していたCBSが激怒したそうです。エピックはCBSの傘下であったため、いろいろと大人の事業が絡んできたんでしょう。
そして、徐々にシンセやシーケンスが多用され、ジョー・ザヴィヌル色が濃くなっていったウェザー・リポートから翌年1982年に脱退。脱退の理由としては、自身のビッグ・バンドである「Word of Mouth Big Band」での活動に専念するためとされています。
脱退して更に活躍の場を広げるのかと思いきや、この頃からトップミュージシャンとしての周囲からの重圧もあり、ジャコの生活が荒れ始め、酒や薬に溺れ、精神状態も悪化していったそうです。私生活でもふたり目の妻との離婚等もあり、双極性障害にも悩まされるようになっていったとのこと。
ウェザー・リポート加入当時は酒や薬とは無縁の生活を送っていたそうなんですが、多忙を極めていた1970年代後半から徐々に薬に染まり出し、酒の量も増えていったそうです。
そして薬欲しさにベースまで売ってしまう程の貧困状態となり、ホームレス化してしまう始末。
かろうじて続けていた音楽活動ですが、ツアー中の奇行が目立つようになり、当然ながら仲間はどんどん離れていき、その後は精神病院への入院と路上生活を何度か繰り返していたとのこと。
薬物中毒の療養中に親交を深めたドラマーのブライアン・メルヴィンとピアノトリオ編成でのジャズのスタンダードばかりを収録した「Standard Zone」がジャコの最後のスタジオ録音とされています。
ジャコの最期
1987年9月11日、ジャコは故郷であるフロリダ州のフォート・ローダーデールに来ていたサンタナのライブ見に行っていたそうです。が、何を思ったのか、いきなりライブに乱入し飛び入りしようとし出したとのこと。当然ではありますが、その場で警備員に取り押さえられたてしまったそうです。サンタナになだめられていたそうですが、そのまま会場を後にしたとのこと。
そして翌日、泥酔した状態で「ミッドナイト・ボトルクラブ」というナイトクラブに入店しようとした際にガードマンと口論になり乱闘に発展。乱闘の末コンクリートに頭を強打したことによる脳挫傷で意識不明の重体に陥ってしまいます。その時のガードマンは空手の技能を持ち合わせていたんだとか。相手が悪かったというかなんというか…。
病院に搬送されるも、一向に意識が回復する兆しがみられなかったため、1987年9月21日、家族の同意のもと、人工呼吸器が外され、35歳という若さでこの世を去りました。
おわりに
今回ジャコ・パストリアスについていろいろ調べてまとめてみたのは、今度「JACO」を見に行く予定なので、ある程度予備知識は頭に入れた状態で映画を見たいという自分自身のためというのが本音です。
使用機材やプレイスタイルについてのお話もするとかなり長くなってしまうので、今回はジャコ・パストリアスがどういった人物であったのか、どういった生涯を送ったのかについてだけにさせて頂きます。
次回はジャコの使用機材やプレイスタイルについてお話していきたいと思います。
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